シャコンヌによせて〜 vol.1 バッハの辿った歴史 〜今を生きる私たちにとってのバッハとは?〜


4回にわたって綴るシャコンヌによせてシリーズ第一弾。


ここ最近、シャコンヌにじっくりと向き合いながら

バッハの無伴奏作品が今の時代に生きる私たち演奏家にとってもたらす意味はなんだろうかと思いを巡らせていたのですが、

この第一弾では

今日までバッハの無伴奏作品が受け継がれてきた道筋とバッハが辿ってきた歴史を探りながら、

私たちにとってのバッハ像を考えていきたいと思います。




時代が移り変わる中、ヴァイオリンの奏法にはその時代ごとのスタイルがありますが、

その中でも特にバッハは時代ごとの流行や解釈の傾向が議論される作曲家です。


表現の幅は十人十色、たとえばどのスタイルで弾くか、

バロックスタイル?それともビルティオーゾ風?ビブラートは?ボーイングは?

そのような一つ一つの表現の選択が

今の自分の思考、価値観などと結びついてバッハを聴くとその人の背景が見えるような気がするのです。



|6つの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータの辿った道|


バッハは今日ではもっとも有名な作曲家の一人ですが、

バッハ作品が世間に名を馳せるまで、18世紀、19世紀と様々な過程を踏んでいます。

特にこのシャコンヌが入っている6つの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータが辿ってきた道筋はとても面白いです。




この作品は1720年に書かれましたが、存在が一般に知られたのは1754年の彼の死亡記事と同時期。


にも関わらず、1700年代が終わりを迎える間近まで、出版が一度もされてきませんでした。


無伴奏ソナタとパルティータが初めて出版されたのが1798年のフランスのヴァイオリニストJ.B.Cartierによるl'Art du violon の中の一曲としてソナタ第3番のフーガのみ出版されました。

これは極力バッハの書いた自筆譜に沿ったものでした。


1800年に同様にCartierによって”3つのソナタ”が出版されますがパルティータは含まれていません。

1802年のSimrock社の出版で3つのソナタと3つのパルティータがようやく出版されました。

(しかし、タイトルはなぜか3つのソナタとしか明記されていないようです....) 


そして1843年、ドイツのヴァイオリニスト Ferdinand Davidによってよりヴァイオリン向きに校正されたものがライプツィヒで出版されますが、

バッハが書いたオリジナルのままの譜も参照できるよう含まれていて、

これはのちのヴァイオリニストたちがこのようにオリジナル譜も加えて出版していくモデルとなっています。



1802年のフォルケルという音楽学者のバッハ伝には


バッハの無伴奏ヴァイオリン作品とチェロ作品は、

伴奏が全くなく、とてもほかのものとは異なるもの

であり、

楽器の奏法を習得するのに最適なものだと

いわいるエチュードだ。 

と書かれています。


この時代のヴァイオリニストたちにとってこの作品の卓越性は評価されていたものの、

それは人前で弾くためのものではなく演奏技術を磨くための練習曲でしかなかったのです。


それはなぜでしょうか。


Chartier 社、Simrock社のものどちらも

Trois sonates pour violon seul sans basse 

 =無伴奏ヴァイオリンのための3つのソナタ、通奏低音なし


とわざわざ伴奏がないことがタイトルに明記されているのもその珍しさをあらわしていますが、このフォルケルがほかとは異なると記したように、

この時代は伴奏がないものは不完全なものとして捉えられていたためです。



バッハのこれらの無伴奏作品は19世紀前半、まれに演奏されることがありましたが、それはピアノ伴奏つきでの演奏でした。


つまり、バッハの無伴奏譜にわざわざ伴奏パートを付け足してでの演奏だったのです。


とりわけ、この中のシャコンヌに注目が集まり始め、シャコンヌの伴奏パート付きの楽譜が様々な作曲家によって書かれ、


1845 年 レッセル

1847年 メンデルスゾーン

1854年 シューマン、モリック

によるエディションが出版されています。


シャコンヌが作品の名を馳せてきたのはこれらの伴奏付きの演奏が広まっていったからで、

そのほうが多くの聴衆にとってわかりやすく楽しいという理由で伴奏付きが好まれました。



|3つのピアノ伴奏とその特徴|


ここで、それぞれの作曲家の書いた伴奏パートを少しみてみると、

各作曲家のシャコンヌのヴァイオリンパートに対する解釈、和声進行や表情の多様さが面白いです。

普段無伴奏で弾く時に、自分の頭でイメージし鳴っていた和音からは思いもよらぬ伴奏が付けられていたりします。


特にその差がはっきりでていて印象的だったのは冒頭、中間部、終盤。


[冒頭]


レッセル版

メンデルスゾーン、シューマン版と異なるレッセル版は、

ピアノパートの軽快な動きが特徴的で、曲の流れを作るのを担っているかのような役割をもっていますね。


メンデルスゾーン版

冒頭のDのバス一音を鳴らした後には、テーマをヴァイオリンに託しています。


シューマン版

冒頭のテーマはヴァイオリンのみ、あとから合いの手をいれるように加わります。

一拍目がないのも、上記の2人と異なる特徴です。



[中間部]

この中間部は短調から長調に転調し表情が変わる、曲の切り替わりポイントです。

ここの捉え方の違いでまったくキャラクターが変わるのが伴奏によって、より明白に出ています。


レッセル版

ピアノの流れるような対旋律が、ヴァイオリンの旋律をメロディーとして曲を運んでいくようなイメージを与えています。

動き、流れのある場面という印象。

シューマン版(上段)
メンデルスゾーン版(下段)

レッセル版とはうってかわって、ピアノパートの動きは和声進行だけに抑えられた、コラールのような伴奏です。

聖性、静けさ、祈りのような印象。

[終盤]

レッセル版

F−Dis-Aの長和音で終わるピカルディ終止をとっているのが特徴的です。

光がさしたような、教会音楽ぽい終わり方になっています。わたしが聴いた中での1番のサプライズポイントです。


メンデルスゾーン版

これに対してメンデルスゾーン版は終わりの和音は短和音。

ヴァイオリンと同じ旋律を奏で支えながら、曲の終わりに向けて重厚感を増していくような押しの強さのようなものを感じさせられる終わり方です。


シューマン版
同じく最後の和音は短和音。
ピアノパートの動きを入れながら、

ヴァイオリンパートが終盤に向かっていく様子を和音で支えて導いていくような感じを受けます。



(話を戻して....)



19世紀初めには伴奏がないがために練習曲として捉えられていたバッハの無伴奏作品、

200年後の今の時代からすると考えられないようなことですよね。



19世紀後半から、6つの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータの完全な形での出版が盛んになり、この作品の重要性が世間に知れ渡っていきました。



|バッハの演奏解釈と歴史|


では今日、しばしば議論になるバッハの作品解釈ですが、それはどのような歴史背景を辿ってきたのでしょうか。



1829年のメンデルスゾーンによるバッハのマタイ受難曲の上演が大きなきっかけとなり、

それまで忘れ去られていた”前の時代の音楽”へ光が再び当たりはじめました。バッハの復活です。  


そしてここから、歴史主義の動きの高まりと共に、古楽復興運動が始まっていくのです。


しかし、その当時は斬新な音楽的改革を多く遂げたベートーベンによって、音楽界は動かされていき楽器の奏法も変化していきました。


例えばヴァイオリンで言えば、吸い付いた長い音、ソステヌートの表現やスピッカート奏法などのより細かいテクニックの動きを可能にするために、

弓の改良が行われ現在使われている形になります。

(それまで使われてたバロック、古典の時代の弓はそれよりも軽い音やセパレートした発音に適したものでした。)

(弓の変化、下からバロック~推移過程の弓~現代の弓 

弓の毛箱にあたる持つ部分と弓先の形の変化がわかります。) 



このようにベートーベンの影響からのドイツロマン派的な音の表現が主流になったことで、


バッハの曲が世に出てくるようになっても、

奏法はロマン派的なソステヌートな音やビブラートを多用した音であり、

バッハの時代の古楽奏法が広まっていったわけではありません。



それに加え、バロック時代の音楽というのは、

楽譜にわざわざ書かない風潮があり、

その時代の奏者であれば皆既に知ってるようなルールや奏法、スタイルがあるのです。


そのため、そのスタイルが書かれていないまま後世に伝わると、CDなどもないため楽譜に書かれた通りにしか演奏することしかできず、

実際に当時に鳴っていた音とは異なってしまいます。


その時代の音楽上のルールが伝わらない+ロマン派的奏法の流れにより、

バッハが実際に聴いていた音とは違う形で受け継がれていったのです。


1970年頃からピリオド楽器や文献の研究が盛んになり、バッハの時代には実際どのように演奏していたのか、どんな響きを持っていたのか、などということに焦点が当たってくるようになりました。


録音技術やCDなどの媒体の発展により、

多くの人が簡単にいろいろな演奏を聴けるようになり、古楽奏法が広まったのもあります。


楽譜の読み方、解釈、バロック弓のアーティキュレーションをイメージした奏法や古楽器による演奏など、当時の響きの再現を試みる姿勢が浸透してきました。



これが今の時代に至るまでにバッハの作品解釈が辿ってきた道です。



ここでいろいろな時代や異なる背景をもつ演奏家のバッハを聴き比べしてみると、

それぞれの捉え方、どこに焦点を当てているのか、

そのような違いをみることができるのが、とても興味深いです。



|バッハを弾くということ|



歴史や宗教の背景、作曲書法、スタイル、、

いろいろな要素と解釈の可能性が詰まっているバッハの作品は、

己と向き合うことを教えてくれ、演奏者の生き様を投影するかのような。


まるで魂との対話に導くもののような役割を果たし、精神的にも特別な向き合い方が問われるような気がします。




バッハのシャコンヌを弾くに当たっていつも思うのは、


この曲の構成、すなわちテーマが模倣され形を変えながら転調し、また初めと同じ形に戻ってきて終わることが、まるで人の人生を表すようなものではないかなということです。


たった1人で、4本の弦と空間を使い、

物語に様々な要素を加えて発展させながらも、

初めから終わりまでの一貫したものを紡いでいき世界をつくる。



なにか心に訴えかけるものがあります。





漠然とした感覚でしかわからないこの世界観ですが、

コントラストやカラーの変化と一貫した"なにか"が共存してる、

そんな一つのストーリーを表現しながら、長い時間をかけて弾いていきたい作品です。



みなさんにとってのバッハとはどのようなものですか?



岡村亜衣子







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