Proustとわたし 音楽が好き!1つの音に広がる想い。
プルーストの失われた時を求めての中の音楽に出会ってからというもの、
私の音楽との関わり方やマインドに何か、より一層確かなものが生まれてきたような気がします。
これでいいんだよ、自分の感覚を信じて。と声をかけてもらったような。
そもそもなぜプルーストの書く音楽にこれほどまでに心が魅せられたのかなと見つめ直してみました。
あの文章をみたときに芽生えた感覚…それは子どもの時に抱いていたような、何か純粋で無垢なものに触れてなぜ私がヴァイオリンをここまでずっとやってきたのかを思い知らせてくれたようなもの。
環境の変化と共に無意識に蓋をし始めてきた、音楽へのありのままの思いや受け取り方。その隠れていたものを一気に文字で目の当たりにして、
眠っていた感情が心の中で目を覚ましたから、魅了されたんだと思います。
その感情というのは、ただ本当に単純なことなのですが….
プルーストを通して、自分の演奏活動を通して、そして人々との関わりを通してわかったのは
わたし、実は音楽がとっっても好き
だということ。
これって当たり前!なのに、長い間どこかそれを完全に認めないようにしていたのかもしれません。
ヴァイオリンを始めたのも選んだのも、それで生きていこうと思ったのも自分なのに、
心のどこかで、 "でもね私は音楽だけじゃなくても色々できるけど"と人に見せたかったのかなぁ。
また、もしかしたら、
"好きなことだけやってていいよね。"
とたまに他業種の人から言われることへの違和感で、
それで生きていくには大変なんだよ!と、見せたくて好きなことをしている事実には変わりないのに
その言葉から逃げようとしてしたのかな…
もともと小さい頃から、好きで続けてきたという純粋な気持ちを、色々な社会の現実に向き合う中、濁らせてしまったのです。
中学や高校辺りからでしょうか。
コンクールや試験やコンサートで、量をこなし人並みに上手く弾くことが最優先だというルーティーンに陥ってしまい、
他の人と同じレベルに « 仕上げる »ことに無意識に集中してしまってたように思います。
本当はもっともっとそれぞれの要素に言いたいことがあって想いがあって、、、。何かしたいのに、そしてそれが自分の目指す表現だと知りながらも、
そんなことに向き合うことが後回しになっていました。
何が“上手い“の定義かも曖昧なのに、上手くなろう。それが第一で…
本当の自分の音楽への気持ちを、恥ずかしさからなのか、または自信のなさからなのか、
言葉で表現できる以前に、ちゃんと自覚するところにも来れていなかったように感じます。
それでも、昔から色々な国内外の先生方に、
あなたは何か持ってる。
なにか人と違った特別なものがある。
内から出てくるものがある。
そう言っていただくことが幾度とありました。
でもその正体がよくわからず、
果たしてそれを生かせているのかどうか、
自分ではずっと疑問でした…
何かってなんだよー、、、、
どうしたら良いんだよー、、、って。
数年前のある日、わたしがいつも一緒に弾いていたピアニスト—友達とも遊ばず他のことは犠牲にして、ピアノの練習しか人生でしてこなかったけど、それが彼女にとっての喜びなのだろう、というような人—と普段通り合わせをしていた最中に
あいこってほんとーに音楽が好きなんだね。
私なんかよりずっとずっと…
と言われて、びっくりしました。
私が弾いている姿を見てそう感じたらしいのです。
あんなに音楽命!みたいな彼女からみてそう見えるんだ…と不思議な気持ちになりました。
もちろん音楽もヴァイオリンも好きだけど、
人がそれを見て感じ取ってくれたことが嬉しくて、
改めてヴァイオリン好きって気持ちをもっと素直に感じて出しても良いんだ、とその時心の中の何かがクリアになりました。
それから少しして出会ったプルーストの文章。
作中に広がる彼の音楽への愛からくる一つ一つの音への思い入れや空想、心情….
宝石のように多様に輝く彼の語彙たちによって可視化されたこの音の感性に触れて、
音のその奥を空想しながら、心との繋がりを深く追及していくその感覚こそが、
私の中の音楽が好きな理由だとひしひしと感じました。
そして、その時からプルーストはその想いを後押ししてくれる存在となりました。
彼の中の音楽とは、人の心そして人生までを動かす、目に見えない魔法のようなものです。
そして、それは私が子供の頃に抱いていた音楽への想いと同じ。
ある日、日本に帰った際に祖母の家で、私と私が魅せられたプルーストの文章にあるちょっとした共通要素に遭遇しました。
それは、昔からずっと食卓に飾られている、私が小学校の頃に授業で書いた詩。
この紙きれは当時からずっと何年も飾ってくれていて、祖母の家に行く度に目にしていましたが、
どうも子供ぽくてきれいごとっぽくてまったく何を言ってるんだろう、、、。と毎度目にするたびに恥ずかしくてあまり見ないようにしていたものでした。笑
しかし、これをあまりにも気に入ってくれている祖母がいつものようにその良さを話してくれるので、
改めて読んでみようと目を通してみると…
辛いことがあってもヴァイオリンを弾くことで心に寄り添ってくれる音楽の存在の尊さをひしひしと感じていた当時の心境と、
小さい頃と心の本心は何も変わっていないことに気付かされました。
この純粋すぎる子どもの気持ち、これこそが私がここまでヴァイオリンをやってきた理由そのものだ。と。
そして、プルーストの文章を見た時に思い起こされた感覚も、この音楽の目に見えないチカラによるものなのです。
だから、音楽が好きなんだ。
そして、これからもただ好き、という気持ちを一番大切にしていればどうにかなるだろう、と勇気をもらいました。
最近思うのですが、音楽を心から愛していて、それを追求している演奏家と関わり、一緒に演奏することって本当に心地よくて楽しい。
そんな好きの想いが唯一無二の音楽性になっている素晴らしい人たちと関わっていると
そこにもっともっとフォーカスして行っていいんだ。と、どんどん道がひらけていくような気持ちになります。
そこにある、エネルギーの循環とインスピレーションってすごい。軽やかでクリアで、喜びに溢れてる。
もちろん、好きなだけじゃだめなことなんて誰でも承知です。
でも、好きが元になかったら始まらない。そして、その気持ちが可能性を広げてくれたり、上達するきっかけになる。
そのような素晴らしい人たちって、自分のエゴやテクニック披露が前に出ることなく、
一音一音へのこだわりを紡いでいる。
その結果、彼らの音楽が素晴らしい存在感に達して、真摯さと愛がベースになってるアプローチだから、卓越したテクニックが自然に溶け込んでいるんです。
見せない、けど魅せられるっていうか。
それで、全ての音が生きている。
時々、作曲家への敬意を演奏者は音にするためにいると言われることがあります。
それは、自己流で解釈して好き勝手弾くのではなく、スタイルや時代背景を尊重して楽譜に忠実に…という意味で、もちろんそれは必要不可欠。
でも、それが目的になってしまっては、
それって本当の意味での «敬意»へのブロックになってしまう気がします。
客観的に再現したからといって、
数百年後後に全く違う環境に生きる、全く違う人間が弾くことだけに、そんなに演奏する意味があるのでしょうか?
だったら機械がやれば良いし、こんなに沢山弾き手はいらないし、、、。
同じところがゴールなら多様な演奏家を聴く意味もない…
私は好き勝手弾く癖があったから、型に押し込めないとモノにならない。という昔からの概念がブロックになっていて、模倣にフォーカスを当てすぎて
肝心の自分をそっちのけにしていた頃がありました。
でも、それをしても実際演奏改善のための解決策にはあまりなっていなかったです。笑
一つの音、そのハーモニーの奥に広がっているであろう
作曲家の構想アイデアや計り知れない心情を予測して、自分と重ねることで、
自分の感じ方で表現してもいい、と自分軸を持って改めて作品の細部について考えを汲み取ろうとした時に、
初めて“好き“を活用できた気がします。
書いてある音符たちの正解を探すよりも、
この音をこう弾きたい、これはこう、、を一つずつ紡いでいって一つの音楽を作りたい。
作曲家と音符と私の3人で創り出すという意識で。
私は人生において人との繋がりや共有、そしてそこから得るインスピレーションやチームワークにすごい生き甲斐を感じます。
けれど、自分とのつながりが薄まったらそれはありきたりの、誰が弾いてもいい演奏になる。
自分を十分に知らなければ本当の共有体験やそこから生まれる感動は得られないし…
だからこそ、自分の感性を常に大切にしながら、人との関わりや共有からどんどんワクワクするような音楽体験をこれからもたくさんしていけたら幸せです。
そして、音楽への愛を持った人たちと
沢山関わっていきたいし、私もその愛を深めていきたいです。一見地味な刻みやトレモロでも、その想いがあるとないとでは音の生き方が全く違ってくるから…
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