失われた祖国との調和 ープルーストの言葉とありのままの自分ー
お正月の日本滞在、
楽しかった時間といえば、
子供の頃のビデオを端から漁りに漁り、笑いにふけながらほっこり家族と一緒に見た時間。
リビングの画面の中には、純粋で何も考えずにたくましく生きる小さな私がいました。
お母さんと歌を歌う様子、庭で遊ぶ様子、妹の世話しようとする姿、覚えたバレエの振り付けを舞台で踊る姿、
そして近所の先生のヴァイオリンの発表会で始めたてのヴァイオリンを大きな子に混じってのびのび弾く様子。
そこに映る私は、なぜか今私が弾きたいような音楽の感じ方を何も錯誤することなく実現していたのです。
さて,プルーストの失われたときを求めての第5篇 «囚われ女»では、彼の芸術観や音楽への思想がたくさん見られるのですが、
その中の文章に好きな言葉があります。
一人一人の心の中にある異なる祖国。
この文章をみたときに、なにか強く心に訴えるものを感じました。
音楽家の場合、ここに出てくる作曲家ヴァントゥイユならば書法や構成、音の選び方。
演奏家ならば、それぞれのもつ個性に繋がる歌い回しや音色、感じ方でしょうか…
言葉では表せない、それぞれのセンスや性格またそれまでの人生そのものに関連するこれらの個性、
それこそが、ここでプルーストの言う祖国なのです。
その祖国、私たちの心の中の祖国はどこで形成されたのでしょうか。
それは紛れもなく、子供の頃に私たちに無意識に備わった純粋な感性からくるものだと思います。
それこそが、個性となって現れ、滲み出てくるのです。
その祖国の存在を無意識のうちに知覚し、
成長する過程でどんなに鎧で固められても消されようとしても
表現を通じて一人一人の色として、音として滲み出てくるのです。
知識や経験といった後から故意に加えられたものから生まれた思考。そしてテクニック。
それなしでは大人になった今、昔と同じように過ごしていくことはできません。
でも、子供の頃のような自分に備わった、ありのままの自然さとの調和を得れたときに
初めて本当の自分らしさに戻れるような気がします。
私自身、このプルーストの祖国のフレーズと自分の中の祖国の関係にピンときたのは
小さな頃の自分の歌い回しが
いま自分が弾きたい歌い回しと同じだと気づいた時。
何周も回って、試行錯誤を経たのちにたどり着いたところが、ただ何も考えてなかった頃の私。原点。
自分らしさでした。
そして、その私の祖国は
子供の頃に受けた感性、喜び、愛情、共有した時間…
そのようなものが形成しているのだと実感しました。
お母さんがお腹にいる私に話しかけるように歌ってくれた子守唄、そして小さい頃にお散歩しながら一緒に歌った歌、
お誕生日やクリスマス、ひな祭りといった行事ごとに食べたケーキの蝋燭を目の前に口ずさんだ歌—
幼少期から英才教育を受けたわけでもなく、楽器を始めたの遅めの私ですが、
そんな何気ない日常の中で触れた音楽が今に繋がっているのかも、と何だか感慨深くなりました。
思考やエゴ、プライド…
環境によって植え付けられた価値観や鎧を取り払ったところにある
祖国に戻ることが、私たちにとって本当の心地よい在り方なのではないでしょうか。
小さい頃の、ひたすら明るくて自由でアクティブ、マイペースに感じるままに自分を生き表現する自分を見れて、
何かリセットされたような気持ちになりました。
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