言葉と音楽 プルーストが見る言語の限界とそれを超えた魂の交流

プルーストって、
その« 失われたときを求めて»が世界最長小説としてギネス認定されているほど、
文字をひたすら書きに書きまくった人。

この小説だけでも、文字数は960万以上にも及ぶ、
多分、世界で、いや歴史上、生涯で公式に書いた言葉や文字の数は1番多いのではないでしょうか。


そんな文字の凄みを知り尽くす、まるで魔術師のように言葉を操る彼から見た、その力の限界。
というか言葉よりも魅力的な交流手段…



それが音楽。言葉なしにも唯一無二の魂の交流となりうるツール。






言葉について、より考えるようになったのは
紛れもなくフランスに留学してからでしょう。
日本で、一応フランス語を勉強していったし、講習会や他でできたフランス人の友達もいたから
何となく最低限は喋れる状態ではあった当時。
でも、スピードや単語数はかなり限られてるし、
どうしても、言葉が人並みに使えないと、同等の人間として認められてない感がつきまとう、そんな初めの頃のもどかしさはよく覚えています。
(というか、それは今も…ネイティブじゃない限りずっと感じることだけれど。笑)

日本語では、脳内ではもっと大人っぽいこと言えるのに!もっとちゃんとした意見もあるのに!
私だって、一応20年以上日本で人並みに生きてきたんだよ…と
本当の自分を誰にでもわかってもらえるためには、やっぱり言葉って本当に大切だということを
というのをひしひしと感じました。




ただ、言葉なしにも、
こんなことを考えていてこんな感受性があって、こんな人間です。
ってことを漠然と、でも繊細に理解し合えることもあった。

それはやっぱり、音楽の交流のおかげ。


ヴァイオリンが、そしてそれに取り組む姿が言葉の代役になってくれることのありがたみを思い知り、
感性は、言葉を超えるコミュニケーションを生み出すということを実感しました。




私は、フランス語はともかく日本語でも言葉も自在に操れるわけではないし、
文字に真剣に向き合うという努力や経験は、まだまだ。ほぼないに等しい。

音楽が言葉以上にコミュニケーションの手段になりうることを実感したのは、言葉の壁を体験したのがきっかけで、それがなかったらどうだったんだろう…本質を知り尽くして音楽と言語の力を比較しているわけではありません。



でも、プルーストは、言葉に誰よりも向き合ってきた人。
文字で伝えることを誰よりもしてきた人。


そんな彼が、魂のコミュニケーションには音楽が必要だと語ることに、深い意味合いを感じます。



こちらは、«スワンの恋» の章に登場する文章で、
"ヴァントゥイユのソナタ"のピアノとヴァイオリンから奏でられる対話を耳にしたスワンが、
言葉よりも必然的に心に響き、感じ取ることのできる、
この音の対話の存在に感化された場面。

言葉なしでは、思想や感覚が宙に浮いてしまうと思いきや、
音による受け取り方の方が断然明確で説得力があったという登場人物の体験した感情を通して、
プルーストが言葉と音を比較しています。








またこれは、他の場面 « 囚われの女» の中から、別の人物の目を通して語られている観点。
あるサロンで素晴らしい作品(同じくヴァントゥイユの作品)に出会い、その世界に酔いしれていた主人公。
演奏が終わった直後に感想を話し合う聴衆の言葉を聞き、
その言葉の安っぽさと今まで浸っていた世界の差に落胆するのをきっかけに繰り広げられる
言葉と音楽の本質についての一文です。

今までいた天上の世界=音による感覚 を、同等の純度を持つ言葉に置き換えることが不可能であるという考察から、
言葉の限界をプルーストは示しています。






このように、プルーストはさまざまな人物の声を使いながら、音楽の尊さを伝えています。 






言葉なしでは、コミュニケーションは基本的に成立しない。
でも、さらに深みを増した真のコミュニケーションの可能性を持つのが芸術。

彼の言うような魂の交流を担えるかもしれない演奏家であることに、
なんか生き甲斐や喜びを感じさせてくれますね。


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